歴史に学ぶ
経営者としてリーダーは、日々の仕事の中で様々な決断をする機会が多いと思います。時には社運をかけた決断をすることもあるでしょう。歴史から学ぶコラムは、様々な歴史上の人物などにスポットを当てて、今後の仕事に役立ててもらいたいという思いで企画しました。
第1回目は織田信長です。
ご存知戦国時代の英雄ですが、幾つもの試練を乗り超えて天下統一に向かいました。最初の大きな試練は桶狭間の戦いです。信長の名前が天下の表舞台に出た有名な戦いです。
2万5千以上の大軍を率いて攻め入ってきた駿河の今川義元に対し、織田信長は2千の兵で打ち破った戦いです。当時の状況でいえば負けて当たり前。降伏するか、籠城していい条件で講和すれば上出来という雰囲気であり(戦力が10倍違うから当然と言えば当然の雰囲気)劣勢の前に、城内の兵が籠城かいっそのこと突撃するか、意見がまとまらない中、織田信長のとった行動は驚くべきものでした。
織田信長は家臣たちを「今川義元を討つことだけ」に集中させた。巨大な勢力を誇っていた今川軍は、京都に上洛するために、駿河から西に侵攻し、信長がいる清州城近くの丸根砦、鷲津砦に攻撃を開始しました。
目的を義元の首をとることに専念させた。目的の明確化。
将兵が混乱する中、今川軍の攻撃の知らせを聞いた信長は、飛び起きて「敦盛」を舞い、具足を整え、わずかな兵を引き連れて清州城を飛び出したのです。信長が城を飛び出す姿を見た兵は、「殿を討ち死にさせるわけにはいかない」と、信長のあとを追い、出陣して行きました。その後、信長は熱田神宮にて戦勝祈願を行います。この頃には集結した兵は2千名になっていました。
1度のチャンスを待っていた信長2万5千対2千では勝ち目がない。しかし戦力が分散した今、5千対2千であれば十分戦いを挑める!
戦力が分散し手薄となっていた今川の本陣に向けて攻撃を開始し、今川義元を討ち取ります。戦いが始まる時の信長の軍勢2千に対し、今川軍は5千劣勢の状況は変わりませんが、戦いが始まる直前、信長は家臣たちにこう告げていました。
目的は一つ!従来の戦い方とは違う事を徹底周知!
戦利品を奪ってはならない。殺した相手の首をとる必要はない。目的は全軍勝利あるのみ。勝てばこの場にいる者は、全員末代まで尾張の国の英雄として語り継がれるぞ!
このようなことを将兵に告知し、如何に敵将の首をとることに専心させていくか?徹底させたかったかが伺い知れます。
当時の戦は、討ち取った相手の首をとることが、勲章でしたが、それをするなというお達しです。また、相手が持っていた刀などを奪う「分捕り」も行われていました。将兵にとってはいずれも勲章・小遣い稼ぎなどの実利を削られたわけです。
もっとも敵将の首をとることだけを考えている信長には、これらの行為は認めるわけにはいかない状況もありました。首を持ったままでは相手と戦う事は不利になりますし、分捕りで時間をかることも不利になります。敵の勢力が分散したとはいえ倍の相手と戦うには、そのような事は許しませんでした。まして分散しているとはいえ、近隣に敵が居て、もし急をしり分散した勢力が又集結したら今度こそ勝ち目はほぼ無くなります。
勝つなら短期決戦しかない!信長の胸中は義元の首を早々にとり、すぐ戻る。これしかなかったのではないでしょうか?義元の後継者も決して勇将では無く、その後はしばらく、東の脅威も薄らぐであろう。と考えていたと思います。事実、家康と同盟してからは西へ西へ勢力を拡大していきます。
信長27歳。
歴史の表舞台に登場した戦いでもあります。目標を明確にし、個人の利益よりも全体の勝利を目指し、いままでの慣例などを破っても、達成すべき目標を明確にし、指示し、一つの目標に向かって進んでいく。困難な状況に直面した時こそ、短期的な憶測ではなく、組織としての考えやミッションなど見つめなおし一点突破で目標を遂行することのみに専心する。桶狭間の戦いからは、短期決戦だけでなく、中長期的な視野に立ってこそ窮地を脱しその後に生かすという事が解ります。
いかがでしたでしょうか?現在の住宅市場を取り巻く状況、変化する社会状況、長引く経済不況…。こんな時、発想の天才信長ならどうするか?自社をどこに連れていくのだろうか?そのような感を持った桶狭間の戦い織田信長でした。